病院の受付で「10割負担になります」と言われた瞬間、私は一回、本気で聞き間違いだと思った。
いや、聞き間違いであってくれと思った。
でも、受付の人は申し訳なさそうに、もう一度同じことを言った。
「第三者行為になりますので、健康保険はこの場では使えません」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
え、ちょっと待って。
殴られたの、うちの息子なんですけど。
しかも中3なんですけど。
やったの、格闘技やってる側なんですけど。
なんでこっちが10割払う流れになってるの?
言葉にすると全部おかしい。
でも現実は、受付カウンターの向こうで静かに進んでいた。
私はその日、息子の診断書を取りに来ただけだった。
それだけのつもりだった。
でも、病院に入った瞬間から空気が重かった。
消毒液の匂い。
白い壁。
やけに静かな待合室。
ああいう場所って、それだけで気持ちが削られる。
息子は中学三年生。
受験を控えて、ただでさえ落ち着かない時期だ。
そこにきて、まさかの暴行。
しかも相手は格闘技選手。
ただのケンカじゃない。
少なくとも、そう簡単に「子ども同士のもめごと」で済ませていいような話じゃなかった。
最初に連絡を受けたとき、私は耳を疑った。
「口唇挫傷、耳介挫傷」
診断書に書かれたその文字を見た瞬間、胸の奥がぞわっとした。
口唇。
みぎ耳介。
治療期間は受傷日より3週間程度。
紙の上ではずいぶん事務的だ。
でも、その紙に書かれているのは、うちの息子の顔に残った傷のことだった。
初診日は10月31日。
CTによる検査を行い、経過観察のみ。
後遺障害はない見込み。
そこだけ見れば「よかった」と思うべきなんだろう。
大怪我じゃなくてよかった。
後遺症が残らなくてよかった。
頭の中では、ちゃんとそう思っている。
でも、親ってそれだけじゃ終われない。
息子の腫れた唇を見たとき、私は怒りで手が震えた。
耳のあたりの傷を見て、何度も「痛かったよね」としか言えなかった。
本人はむしろ気丈だった。
「大丈夫」と言った。
その“大丈夫”が、逆にきつい。
大丈夫なわけないだろと思った。
だって相手は格闘技をやっている。
手の出し方を知っている側だ。
普通の中学生が受けるのとは意味が違う。
少なくとも、こっちはそう感じる。
なのに、病院では淡々と手続きが進み、最後に飛んできたのが
「第三者行為なので10割負担です」
だった。
私は一瞬、笑いそうになった。
もちろん楽しくてじゃない。
あまりにも理不尽すぎると、人って逆に少し笑ってしまう。
いやいやいや。
待って。
加害者がいて、被害者がいて、うちの息子が傷を負って、なんで支払いだけこっちがフルなんですか。
受付の人に怒っても仕方ない。
それはわかる。
相手も制度を説明しているだけだ。
でも、わかるのと納得できるのは別だ。
私は書類を握ったまま、しばらくその場で固まっていた。
病院の待合室って不思議だ。
みんなそれぞれ何かしらしんどい理由を抱えて来ているのに、空気は妙に静かで、誰も感情を大きく出さない。
だからこそ、自分の怒りだけが場違いみたいに感じる。
でも、場違いでも何でも、腹は立つ。
しかも、うちは別に余裕がある家庭じゃない。
中3の息子がいて、これから受験。
塾代だってかかる。
日々の生活費だってきつい。
そんな中で「保険ききません、10割です」は、普通にダメージが大きい。
私は心の中で何度も同じことを繰り返した。
悪いの、うちじゃないのに。
殴られたの、うちなのに。
なんでこっちが破産しそうな顔で会計しなきゃいけないの。
“第三者行為”という言葉の冷たさも嫌だった。
制度上は正しいんだろう。
処理としては整っているんだろう。
でも、その言葉に息子の痛みも、こっちの怒りも、一ミリも入っていない。
全部、紙の上の都合だ。
私はそこでようやく、別の方向に頭が回り始めた。
ああ、これ、黙ってたらダメなやつだ。
病院で怒鳴るとかそういう意味じゃない。
ちゃんと記録を残して、加害者側に請求できるものは請求して、学校や関係先とも話を詰めて、こっちが泣き寝入りする流れだけは絶対に止めないといけない。
最初はただ「ムカつく」でいっぱいだった。
でも、怒りって少し時間が経つと形を変える。
ちゃんと使えば、行動力になる。
私は診断書を受け取って、病院の外に出た。
風が冷たかった。
でも、待合室の中よりは息がしやすかった。
スマホを取り出して、必要なことを整理した。
診断書の内容。
初診日。
治療内容。
治療期間。
相手の情報。
学校とのやりとり。
そして、この10割負担の件。
全部、残す。
全部、言葉にする。
全部、後で「そんな話は聞いていない」で逃げられないようにする。
息子の顔を見たとき、改めて思った。
親がここで疲れてる場合じゃない。
もちろん疲れてはいる。
普通にしんどい。
金の話まで乗ってきて、メンタルはだいぶ削られている。
でも、だからこそ、こっちが冷静でいないとダメだ。
相手が格闘技選手だろうが何だろうが、やっていいことと悪いことは別だ。
強いならなおさら、手を出した時点でダサい。
本当に強い人間って、殴る側じゃなくて、殴らずに終わらせる側じゃないのか。
そう思うと、余計に腹が立った。
そして制度にも一言いいたい。
第三者行為だから10割負担。
理屈はわかる。
でも、被害者側の初動がこんなにしんどいの、普通にどうかしてる。
こっちは怪我の心配して、学校との連絡して、本人の精神面も気にして、その上で財布まで直撃される。
忙しすぎるだろ。
せめて、もう少し“被害者が詰まない導線”にしてくれと思う。
診断書を見ながら、私は心の中で決めた。
これは“ただの治療費”じゃない。
加害者側に現実を突きつけるための証拠だ。
痛みは紙に書いても完全には伝わらない。
でも、紙がないと世の中は何も動かない。
だったら取る。
ちゃんと取る。
そして使う。
破産します🫠
……って、冗談みたいに書きたくなるくらい本気でしんどい。
でも、本当に終わらせるのは家計じゃない。
こっちが泣き寝入りして、相手に「これくらいで済んだ」と思わせることのほうだ。
だから、終わらせない。
少なくとも、うちだけが黙って全部払って終わる話にはしない。
殴った側は、たぶんその瞬間だけで済んだと思ってるかもしれない。
でもこっちは、その後の通院も、書類も、支払いも、全部現実として残る。
だったらせめて、最後に青ざめるのはこっちじゃなくて、そっちであってほしい。