あの日、私はたしかにレシートに侮辱された。
最初は、ただの休日だった。
空気は少し湿っていて、建物の中には人の熱気がこもっていた。受付の前には小さな列。床には使い込まれた靴の擦れる音。遠くから、誰かの笑い声と、何かが壁に当たる鈍い音が交互に聞こえてくる。
私は友人と一緒にそこにいた。
ちょっと遊ぼう。
そんな軽いノリだった。
大人が何人か集まって、少し童心に戻る。
そういう、平和な時間になるはずだった。
受付で名前を告げ、料金を払う。
店員は慣れた手つきで処理を進める。
私はぼんやりその様子を見ていた。
特に何も疑っていなかった。
疑う理由もなかった。
レシートなんて、ただの紙だ。
金額が印字されていて、ちょっと折られて、財布の底でくしゃっとなる。
その程度の存在だと思っていた。
その紙切れが、人の尊厳に膝蹴りを入れてくるまでは。
会計が終わって、私は何気なくレシートを受け取った。
指先に触れた感触は、いつもと同じだった。
少し熱を持った、薄い紙。
でも、その瞬間はまだ知らなかった。
そこに、余計な一行が紛れ込んでいたことを。
私は歩きながらレシートを開いた。
上から順に、料金の内訳を目で追っていく。
投げ放題。
フロント貸靴。
割引券。
ふんふん、なるほど。
まあ普通だ。
その次の瞬間だった。
私の目が止まった。
止まって。
二度見して。
それでも意味が飲み込めなくて、三度見した。
そこに、はっきり書いてあった。
「キモ・オタク(大人 一般)」
……は?
私はその場で固まった。
人って、本当に固まるんだなと思った。
漫画みたいに時間が止まる。
耳の奥がすうっと冷える。
さっきまで聞こえていたざわめきが、急に遠くなる。
友人が横で、「どうした?」と聞いてきた。
私は無言のままレシートを差し出した。
言葉にしたら負けな気がした。
いや、何に負けるのかはわからない。
でも、口に出した瞬間、この妙に完成度の高い侮辱が現実として確定してしまう気がした。
友人はレシートを見た。
そして、ぴたりと止まった。
次の瞬間、肩を震わせた。
「あかん」
「笑うな」
「いや、これは無理」
「笑うなって」
言っている私の声も、もう半分笑っていた。
笑うしかないのだ。
だって、レシートだぞ。
ただの会計明細だぞ。
そこに、なぜ人格否定みたいな単語が商品名の顔をして混ざっているんだ。
私はもう一度、紙を見た。
見間違いじゃない。
印字のブレでもない。
誰がどう見ても、堂々と書いてある。
「キモ・オタク」
妙に区切りがいいのも腹が立つ。
リズムがあるな。
じゃない。
何なんだこれは。
私は頭の中で状況を整理し始めた。
まず、これは店側が入力した表示名だ。
レシートに勝手に詩が生まれることはない。
つまり、何かしらのプラン名、仮の登録名、内部コード、あるいは店員の悪ノリが、そのまま印字された可能性が高い。
でも、だとしてもだ。
なぜそれを客に渡す紙に、そのまま載せる。
内部だけで済ませろ。
心の中だけで済ませろ。
いや、心の中でも済ませるな。
私はレシートをつまみ上げたまま、受付のほうを見た。
店員たちは変わらず働いている。
誰もこちらを見ていない。
誰一人、「あ、やべえ、あの客に“キモ・オタク”って印字したレシート渡しちゃった」と青ざめている様子もない。
その平然さが、逆に怖かった。
もしかして、これ、日常なのか。
そんなわけないだろ、と自分で自分にツッコむ。
でも、人は想定外が大きすぎると、一周回って何でもありに見えてくる。
友人はまだ笑っていた。
笑いをこらえようとして失敗していた。
ひどい。
いや、気持ちはわかる。
私だって他人のレシートにこれが書いてあったら、たぶん笑う。
当事者じゃなければ。
「これ、言う?」
と友人が聞いた。
私は少し迷った。
言うべきだ。
普通に考えればそうだ。
客に渡すレシートに侮辱語が載っているなんて、どう考えてもおかしい。指摘したほうがいい。店のためにもなる。社会のためにもなる。
でも同時に、ものすごく嫌な想像も浮かんだ。
すみません、このレシートなんですけど。
はい。
ここに“キモ・オタク”って書いてあるんですけど。
ああ、申し訳ありません、内部コードでして。
内部コード。
嫌すぎる。