退職届を書いたのは私なのに、完成させたのは職場の連中だった。
机に戻ってきた私が最初に見たのは、きれいに用意していたはずの封筒じゃなかった。
そこには、でかでかと意味不明な文字が並んでいた。
「日本仕込」
「退職届」
「もちりおいしい日本の食パン」
数字まで囲われていて、もはや何の儀式なのかも分からない。
一瞬、意味が理解できなかった。
でも、周りのニヤニヤした顔を見て、すぐ分かった。
ああ、やられたんだ、と。
「え、なにこれ?」と聞いた私に、同僚は笑いながら言った。
「どうせ辞めるんだし、これでよくない?」
「逆に思い出になるじゃん」
「ウケると思って」
その軽さに、腹の底がすっと冷えた。
怒鳴る気にもなれなかった。
ショック、というより、妙に納得してしまったからだ。
ああ、この会社って最後までこうなんだな、って。
私はこの会社でずっと、雑に扱われる側だった。
急ぎでもない雑務を押しつけられるのはだいたい私。
誰かがやりたがらない面倒な作業も、なぜか自然に私のところへ回ってくる。
残業も当たり前。
フォローも当たり前。
尻ぬぐいも当たり前。
でも評価されるのは、声の大きい人だった。
会議で目立つ人。
うまく立ち回る人。
人の仕事に最後だけ乗って「自分がまとめました」みたいな顔をする人。
こっちは毎日地味に回しているのに、そういうのは全部“いて当然”で片づけられる。
それでも私は、なるべく波風を立てないようにしてきた。
空気を悪くしたくなかったし、面倒な人にもなりたくなかった。
少なくとも最後くらいは静かに終わらせたかった。
だから退職届も、必要以上に騒がず、きちんと出すつもりだった。
自分の中では、それが最低限の礼儀だと思っていたから。
なのに、少し席を外しただけでこれだ。
人の退職届を勝手にいじって、ふざけて、笑って、
しかも誰一人「それはやめなよ」と言わなかった。
その瞬間、私はやっと分かった。
この人たちは私を嫌っていたわけじゃない。
もっと雑だった。
“この人には何をしても大丈夫” と思っていただけだ。
たぶん私は、ずっとそこを見誤っていた。
我慢していれば丸く収まると思っていたし、
笑って流せば自分だけは傷つかずに済むと思っていた。
でも違った。
我慢って、相手によっては「このくらいやっても平気」という許可証にされる。
退職を決めたのは、仕事がきつかったからだけじゃない。
この空気に、もう限界だったからだ。
常識よりノリ。
敬意より内輪ウケ。
誰かが嫌がるかどうかより、その場で笑いが取れるかどうか。
その軽さが、ずっとしんどかった。
そして最後の最後に、退職届までおもちゃにされた。
普通なら、書き直すのが正解なんだと思う。
きれいな封筒に入れ直して、何もなかった顔で上司に出す。
余計な揉め事を避けたいなら、そのほうが賢い。
たぶん前の私ならそうしていた。
でもそのとき、私は逆に吹っ切れた。
ここまでされて、なんで私だけが最後まで“ちゃんとした人”をやらなきゃいけないんだろう。
きれいに辞めたところで、この職場の気持ち悪さが消えるわけじゃない。
むしろ私が黙って整えてしまったら、何もなかったことになる。
それだけは嫌だった。
私は落書きだらけの封筒を見つめて、ふっと思った。
――あ、このまま持っていこう。
きれいにしない。
隠さない。
書き直さない。
これごと見せよう。
そう決めた瞬間、不思議なくらい気持ちが静かになった。
私はそのまま封筒を持って、直属の上司の席へ向かった。
周りはまだ半分ふざけた空気のままだった。
「マジでそれ出すの?」
「やば、怒られるって」
そんな声も聞こえたけど、もうどうでもよかった。
上司は封筒を見るなり、顔色を変えた。
いつもの余裕っぽい表情が一気に消えて、眉がぴくっと動いた。
そして低い声で言った。
「……これは何だ?」
そのとき、たぶん周りにいた何人かは、まだ“私が注意される”と思っていたんだと思う。
常識的に見れば、落書きされた封筒をそのまま提出するほうも問題に見えるから。
でも私は、そこで初めて一切ごまかさずに言った。
「これが、今の職場の空気です。」
それだけ。
言ったのは本当に、その一言だけだった。
でも、効いた。
上司は黙った。
封筒と私の顔を見比べて、次に周囲を見た。
さっきまで笑っていた同僚たちの顔が、そこでやっと変わった。
“あ、まずい”という顔だった。
たぶん、あの瞬間に初めて分かったんだと思う。
これはただの悪ふざけじゃ済まないんだって。
人の退職届に落書きしたことそのものより、
それを笑って通る空気ごと突きつけられたことがまずかったんだって。
それから先は早かった。
上司はその場で関係者に確認を始めた。
誰が書いたのか。
誰が見ていたのか。
止めた人はいたのか。
笑っていた人は誰か。
さっきまで「どうせ辞めるんだし」と軽く言っていた同僚たちは、急に声が小さくなった。
「いや、そんな大ごとにするつもりじゃ……」
「冗談だったんです」
「まさかそのまま持っていくとは……」
その“まさか”がもうズレてるんだよ、と思った。
人の退職届に好き勝手書いておいて、
問題になるポイントが“そのまま持っていかれたこと”だと思ってる。
最後まで感覚が狂ってる。
でもそのときの私は、不思議なくらい冷静だった。
怒鳴り返したい気持ちも、責め立てたい気持ちもなかった。
ただひとつ、ようやく終わった、と思った。
ああ、もう私はこの空気に合わせなくていいんだ。
嫌なことを笑って流さなくていいんだ。
“場を壊さない人”でい続けなくていいんだ。
その日を境に、ふざけていた同僚たちは一気に青ざめた。
問題になったのは、落書きの文字そのものじゃない。
人の退職すらおもちゃにする職場 であること、そのものだった。
私は別に、最後に大逆転したかったわけじゃない。
誰かを徹底的にやり込めたいわけでもなかった。
ただ、なかったことにされたくなかっただけだ。
私が辞める理由も、そこに積み重なっていたしんどさも、
最後のあの封筒に全部出ていた。
退職届を出すだけのつもりだったのに、
結果的に私は最後に一番はっきり、この会社の異常さを見せることになった。
でも今振り返ると、それでよかったと思っている。
きれいに辞めるより、ちゃんと線を引いて辞められたから。
「ここまでは許さない」と、最後に自分で決められたから。
あの封筒は確かに最悪だった。
でも同時に、私がこの会社から本当に離れるために必要な一枚でもあった。
退職届を書いたのは私。
でも、あの会社の空気を完成させたのは、間違いなくあの落書きだった。
そして私は最後に、それを隠さなかった。
それがたぶん、あの職場で初めて私が自分のためにした、まともな反撃だったんだと思う。