私は、ホテルを出るときだけはやたら几帳面な人間だ。
ベッドはなるべく整える。
ゴミはまとめる。
使ったタオルも、なんとなく見苦しくないように置いておく。
洗面台に水滴が残っているとちょっと気になるし、
「清掃の人が見たとき、少しでも気持ちよく入れたらいいな」
くらいのことは毎回わりと本気で考えている。

自分で言うのもなんだけど、たぶん私はかなり退室優等生だ。
……だったはずなのに。
その日、駅に着いて、荷物を持ち直そうとしてバッグの中を見た瞬間、
私は本当に固まった。
白い小さな目覚まし時計が、
当たり前みたいな顔をして、私のバッグの中に入っていた。
え。
いや、え???
一瞬、意味がわからなかった。
次の瞬間、全部つながった。
あ、私、ホテルの目覚まし時計を持ってきてる。
落とし物じゃない。
忘れ物でもない。
持ってきてしまっている。しかも、ホテルの備品を。
顔から一気に火が出た。
あまりにも恥ずかしくて、ホームに立ちながら一人で変な汗をかいた。
何が恥ずかしいって、私はいつも
「ホテルではちゃんとして帰る人」
を静かに自負していたからだ。
ちゃんとして帰ったつもりだった。
部屋はきれいにした。
机の上も見た。
忘れ物がないかも確認した。
なのに最悪の形で確認が抜けていた。
自分の物を忘れず、ホテルの物を持ち帰る人間。
そんなジャンル、ある?
しかも、頭の中にはすぐ映像が流れ始めた。
清掃スタッフの方が部屋に入る。
整えられたベッドを見て、
「あら、きれいに使ってくれたお客様ね」
と一瞬だけ思う。
でも次の瞬間、ベッドサイドを見る。
ない。
あるはずの目覚まし時計が、ない。
「……え?」
絶対探すよね。
ベッドの下も見るよね。
引き出しも開けるよね。
「もしかして別の場所に移動した?」ってなるよね。
最終的に、
「まさか持って行かれた……?」
までいくよね。
もうダメだと思った。
私の中の“ちゃんとしてる客”のイメージは、駅のホームで静かに爆発した。
その場で予定変更。
私は最寄りの郵便局へ直行した。
朝イチで。
ほぼ反省文を提出しに行く犯人みたいな足取りで。
窓口でレターパックを前にした瞬間、
急に現実味が増してきた。
「ああ、本当に私は今、ホテルの目覚まし時計を返送しようとしているんだ」
と思ったら、ちょっと笑えてきた。
でも笑ってる場合じゃない。
送り先を書いて、包んで、できるだけ早く届く形で出す。
同時に、ホテルにも電話をした。
ものすごく申し訳ない声で、
「すみません、今朝そちらを出た者なんですが、
誤ってお部屋の目覚まし時計を持ってきてしまいました。
本当に故意ではなくて、今すぐ郵送で返します」
と説明した。
自分で言いながら、
いやこれ、言い訳っぽく聞こえないかな、
“故意ではない”って言えば言うほど怪しくない?
と、心の中では一人でパニックだった。
電話口の向こうが一瞬静かになった気がして、
私は勝手に最悪の展開を想像した。
あ、終わった。
これはもうブラックリストだ。
次からチェックインした瞬間、
「あの時計の人ですね」
って裏で共有されるやつだ。
でも、逃げずに謝るしかない。
私は包みの中に、手書きのメモも入れた。
「申し訳ありません。
誤ってホテルの目覚まし時計を持ち帰ってしまいました。
すぐに返送いたします。
とても良い滞在でした。ありがとうございました。」
書いていて、さらに恥ずかしくなった。
良い滞在でした、じゃないのよ。
最後の最後で何してるの、私。
でも、ちゃんと伝えたかった。
雑に返すんじゃなくて、
本気で申し訳ないと思ってることを。
すると電話の向こうの方が、少し笑った声で言った。
「大丈夫ですよ。ご連絡ありがとうございます。
わざわざ返送していただけるなんて、ありがたいです。」
その瞬間、全身の力が抜けた。
本当に、心の底から救われた。
怒られて当然だと思っていたし、
呆れられても仕方ないと思っていた。
なのに、こんなふうに受け止めてもらえるなんて。
もちろん、私がやったことは完全にただのうっかりで、
褒められるような話では全然ない。
むしろかなりアホである。
自分でも笑うしかない。
でも、だからこそ思った。
ちゃんとしている人って、失敗しない人じゃない。
失敗したあと、ちゃんと動ける人なんだな。
完璧に見える人でも、やらかす。
ベッドをきれいに整えて帰る人でも、
なぜかホテルの目覚まし時計をバッグに入れてしまう日がある。
人間だから。
でも、そのあとで
ごまかさない、逃げない、すぐ謝る、すぐ返す。
それができれば、案外、世界は少しやさしい。
……とはいえ、次からは退室前チェックを三回やろうと思う。
自分の忘れ物確認のためじゃない。
二度とホテルの物を持って帰らないために。
本当に、清掃スタッフの方、びっくりさせてすみませんでした。
そして、あたたかく対応してくれたホテルの方、ありがとうございました。
あの優しさ、たぶんずっと忘れません。
ただし目覚まし時計は、もう二度と持ちません。
本当に。絶対に。
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